組織の壁を越えるERM実践論:部門横断アプローチでリスクを価値に変える
現代において、企業を取り巻くリスクはますます複雑化し、相互に関連性を強めています。グローバル化、テクノロジーの進化、社会構造の変化などにより、リスクは特定の部門や機能に限定されず、全社的な視点での対応が不可欠となっています。このような状況下で、全社的リスク管理(ERM)の重要性は高まっていますが、その推進においては「組織の壁」、すなわち部門間の連携不足が大きな課題となることがあります。
本記事では、この組織の壁をどのように乗り越え、部門横断的なアプローチによって実効性のあるERMを実践し、リスクを単なる損失要因ではなく企業価値向上に貢献する要素へと変えていくかについて解説いたします。
部門横断ERMが必要な理由:なぜ「組織の壁」が課題となるのか
従来の企業におけるリスク管理は、各部門がそれぞれの業務範囲でリスクを特定し、対応策を講じる縦割りのアプローチが中心となる傾向がありました。しかし、今日の複雑なリスク環境においては、このアプローチだけでは十分ではありません。
リスクの相互関連性と全体像の把握困難
多くの経営リスクは、複数の部門にまたがる影響を持ち、あるいは複数のリスクが複合的に発生することで、単独のリスクよりも遥かに大きな影響を及ぼすことがあります。例えば、サイバー攻撃はIT部門だけでなく、顧客情報を持つ営業部門、生産システムに関わる製造部門、風評リスクを管理する広報部門など、全社に波及します。部門ごとに独立したリスク管理では、こうしたリスクの相互関連性を捉え、全体像を正確に把握することが困難になります。
情報のサイロ化と非効率な対応
部門ごとにリスク情報が囲い込まれてしまう(情報のサイロ化)と、全社として重複した管理が行われたり、逆に重要なリスクへの対応が漏れたりする可能性があります。また、経営層が全社的なリスクポートフォリオを正確に理解し、戦略的な意思決定に活用することも難しくなります。
経営戦略との乖離
部門ごとのリスク管理は、往々にして業務遂行上のオペレーショナルなリスク回避に終始しがちです。全社的な経営戦略と連動したリスクテイク、すなわち戦略的リスク管理の視点が欠落しやすくなります。リスクは戦略の遂行過程で発生するものであり、戦略とリスク管理が一体となって初めて、不確実性の中で成長機会を捉えることが可能になります。
部門横断ERM実践の「壁」と具体的なアプローチ
部門横断的なERMを推進する上で、多くの企業が直面する具体的な「壁」が存在します。これらを認識し、適切なアプローチで乗り越えていくことが成功の鍵となります。
1. 意識・文化の壁:共通のリスク認識を醸成する
- 課題: 部門ごとにリスクに対する意識や優先度が異なり、ERM推進に対する積極性にばらつきが生じる。リスク管理が「自分の仕事ではない」「負担が増えるだけ」といった認識を持たれることがある。
- アプローチ:
- 経営層からのメッセージ: 全社的なリスク文化の重要性を繰り返し伝え、部門横断ERMが全従業員に関わるものであることを明確にする。
- 共通言語の確立: リスクの定義、分類、評価基準など、全社共通の用語や考え方を定義し、研修等を通じて浸透させる。
- 成功体験の共有: 部門間の連携によってリスク回避や機会創出に繋がった具体的な事例を共有し、協働の価値を実感させる。
2. プロセス・システムの壁:情報共有と連携の仕組みを構築する
- 課題: 部門間の情報共有プロセスが確立されておらず、リスク情報がスムーズに連携されない。リスク管理システムが部門ごとに独立している、あるいは存在しない。
- アプローチ:
- ERM推進体制: 部門横断的なメンバーで構成されるERM委員会などを設置し、定期的な情報交換と意思決定の場を設ける。
- 共通プラットフォームの導入: リスク情報の集約、分析、可視化を目的としたGRC(Governance, Risk, and Compliance)ツールなどの導入を検討する。これにより、リアルタイムでの情報共有と全体像の把握が可能となる。
- 連携プロセスの定義: 関連性の高いリスクに対する部門間の協議プロセスや、インシデント発生時の連携手順などを明確に定める。
3. 評価・インセンティブの壁:ERM貢献を正当に評価する
- 課題: 部門ごとの評価基準がリスク回避や管理コストに偏り、全社的なERMへの貢献が正当に評価されない。協力体制を築くインセンティブが不足している。
- アプローチ:
- ERM貢献の評価: 各部門の目標設定において、単なる個別リスク対応だけでなく、全社ERMへの協力体制構築や情報提供といった貢献度を評価項目に加えることを検討する。
- 全社的なリスク削減目標: 各部門のリスク削減努力が、全社的なリスクポートフォリオの改善にどう貢献するかを可視化し、全社目標として共有する。
- 部門間連携の奨励: 優れた部門間連携の事例を表彰するなど、協働を促進する施策を実施する。
4. 経営層の関与不足の壁:リーダーシップを発揮する
- 課題: ERMが経営課題として認識されず、経営層のコミットメントやリーダーシップが不足しているため、部門間の連携を促す力が弱い。
- アプローチ:
- ERMと経営戦略の連動: ERMが経営戦略の達成にいかに貢献するか、リスク情報を戦略策定や重要な意思決定にどう活用するかを具体的に示し、経営層の理解と関与を促す。
- 経営会議での定着: 定期的に経営会議で全社的なリスクポートフォリオや重要リスクについて議論する時間を設け、リスク情報を経営判断の中心に据える。
- ERM責任者の明確化: ERM推進における経営レベルの責任者(CFOやCROなど)を明確にし、その権限と責任を定める。
成功事例からの学び(一般的な傾向として)
部門横断的なERM推進に成功している企業では、以下のような共通点が見られます。
- トップダウンでの強いメッセージとコミットメント: 経営層がERMを経営戦略の一部として位置づけ、その重要性を全社に発信している。
- 部門横断的な推進体制の構築: ERM委員会やプロジェクトチームに多様な部門から人材を登用し、全社的な視点での議論と意思決定を可能にしている。
- 共通のリスク管理フレームワークとツールの導入: 全社共通の定義や基準に基づき、一元化された情報プラットフォームを活用することで、情報の透明性と共有性を高めている。
- 継続的な対話と教育: 部門間のコミュニケーションを促進する機会を設け、リスクに関する知識や意識のレベルアップを図っている。
これらの取り組みを通じて、リスクが顕在化する前に早期に兆候を捉えたり、予期せぬリスクの複合的な影響を低減したりといった成果が見られます。また、リスク情報を経営戦略に組み込むことで、より情報に基づいたリスクテイクが可能となり、新たな事業機会の発見や競争優位性の構築に繋がっています。
まとめ:部門横断ERMが企業価値創造の基盤となる
組織の壁を越えた部門横断的なERMは、現代の複雑なリスク環境に対応し、企業価値を継続的に向上させるための不可欠な要素です。情報のサイロ化を解消し、全社的なリスクの全体像を把握することで、より的確な経営判断が可能となります。
部門間の連携を強化し、リスクを全社的な共通課題として捉え、統合的に管理する体制を構築することは容易ではありません。しかし、経営層の強力なリーダーシップのもと、共通のフレームワークに基づいた情報共有の仕組みを整備し、リスク文化を醸成していくことで、着実に前進することが可能です。
ERMは単なるリスク回避策ではなく、不確実性を乗り越え、持続的な成長と企業価値創造を実現するための戦略的ツールです。部門横断的なアプローチを通じてERMの実効性を高め、リスクを価値に変える経営を目指しましょう。