リスクを価値に変えるERM

ERMによる人的資本リスク管理の実践:組織価値向上へのアプローチ

Tags: ERM, 人的資本, リスク管理, 企業価値向上, 人材戦略

人的資本リスクの重要性とERMによる管理の必要性

近年、企業経営において「人的資本」の重要性が改めて認識されています。テクノロジーの進化、働き方の多様化、労働市場の変化など、不確実性が高まる環境下で、人材は競争優位の源泉であり、持続的な企業価値創造の鍵となります。同時に、人的資本に関連するリスク、例えば優秀な人材の流出、スキルミスマッチ、従業員のエンゲージメント低下、健康問題、ハラスメントやコンプライアンス違反といったリスクは、企業の存続や成長を脅かす重大な経営課題となり得ます。

これらの人的資本リスクは、個別の部門や人事機能だけで対応するには限界があり、全社的な視点での戦略的な管理が不可欠です。ここで重要な役割を果たすのが、全社的リスク管理(ERM)です。ERMは、単にネガティブなリスクを回避するだけでなく、経営戦略と一体となって組織全体の不確実性を管理し、企業価値を向上させるためのフレームワークです。人的資本リスクをERMの枠組みで捉え、統合的に管理することは、これらのリスクを低減するだけでなく、人材という最大の資産を最大限に活かし、組織のレジリエンスを高め、新たな成長機会を創出することにつながります。

人的資本リスクとは何か

人的資本リスクとは、組織の人的資源に関連して発生し得る、経営目標の達成を阻害する可能性のあるあらゆる不確実性を指します。その範囲は多岐にわたります。

これらのリスクは相互に関連しており、一つのリスクが他のリスクを引き起こしたり、影響を増幅させたりする可能性があります。例えば、エンゲージメントの低下は人材流出を招き、不正行為のリスクを高める可能性があります。

なぜ人的資本リスクをERMで管理するのか

個別部門や人事部門がそれぞれのリスクに対応することは重要ですが、全社的な視点を持たないリスク管理には限界があります。

ISO 31000やCOSO ERMといった主要なリスク管理フレームワークも、組織目標の達成に影響を与えるあらゆる不確実性を管理対象としており、人的資本リスクは当然そのスコープに含まれます。特にCOSO ERMフレームワークにおける「目的設定」「リスクの特定」「リスクの評価」「リスク対応」「情報とコミュニケーション」「モニタリング」といった要素は、人的資本リスク管理にもそのまま適用可能です。人的資本を経営目標達成に不可欠な要素として位置づけ、「戦略・目標設定」の段階から人的資本に関連するリスクと機会を特定し、評価・対応計画を策定していくことが重要です。

ERMに人的資本リスク管理を統合する具体的なステップ

人的資本リスク管理をERMに効果的に統合するためには、以下のステップが考えられます。

  1. 人的資本リスクの特定: 経営戦略、事業計画、組織構造、人事施策などを踏まえ、組織が直面し得る人的資本リスクを網羅的に洗い出します。経営層、部門責任者、従業員からの意見聴取、過去のインシデント分析なども有効です。
  2. リスクの評価: 特定された人的資本リスクについて、発生可能性と潜在的な影響度(財務的、非財務的)を評価します。可能であれば、離職率、エンゲージメントスコア、労働時間、研修投資対効果などの定量的なデータや指標を活用し、リスクの「見える化」を図ります。これにより、リスクの相対的な重要度を明確にし、優先順位を設定します。
  3. リスク対応策の策定と実行: 評価結果に基づき、優先度の高いリスクに対する対応策を策定します。対応策には、リスクを回避する、低減する、移転する、または受容するといった基本的な選択肢があります。例えば、人材流出リスクに対しては、報酬・評価制度の見直し、キャリア開発支援、エンゲージメント向上施策などが考えられます。重要なのは、これらの対応策が単なるコストではなく、人材への「投資」として、組織能力向上や企業価値向上に資するという視点を持つことです。
  4. モニタリングと報告: 策定・実行した対応策の効果や、リスク状況の変化を継続的にモニタリングします。リスク指標(KRI: Key Risk Indicator)を設定し、定期的に測定・分析することが有効です。モニタリング結果は、経営層や関係部門に定期的に報告し、リスク管理状況の透明性を確保します。特に経営層への報告においては、人的資本リスクが経営戦略や財務状況にどのように影響するかを明確に伝えることが重要です。
  5. 改善と継続的なプロセス: リスク環境は常に変化します。特定、評価、対応、モニタリングのプロセス全体を定期的に見直し、改善を継続します。新たな事業、テクノロジー導入、規制変更などに伴い発生する人的資本リスクも迅速にERMプロセスに取り込みます。

ERMによる人的資本リスク管理の成功事例からの学び

ERMを通じて人的資本リスクを効果的に管理している企業では、以下のような共通点が見られます。

例えば、ある製造業では、現場での事故リスクや従業員の高齢化に伴う技能伝承リスクを重要な人的資本リスクとして特定し、安全教育の徹底、技術習得プログラムの強化、ベテラン社員の知見共有システムの導入といった対応策をERMプロセスの中で推進しました。これにより、事故件数の低減や技能伝承の効率化が図られ、生産性の向上と事業継続性の強化に貢献しています。また、あるサービス業では、従業員のメンタルヘルスリスクを特定し、ストレスチェック結果の分析、相談窓口の設置、フレキシブルな働き方の導入などをERMの枠組みで実施しました。これにより、従業員のエンゲージメントが向上し、顧客満足度の向上にもつながっています。

ERMによる人的資本リスク管理が企業価値向上に与える影響

人的資本リスクをERMの枠組みで戦略的に管理することは、企業価値向上に様々な側面から貢献します。

これらの効果を経営層に示すためには、単にリスクを報告するだけでなく、人的資本への「投資」がどのようにリスクを低減し、具体的な成果(例:生産性指標の改善、定着率の変化、ブランドイメージ調査結果)に結びついているかを定量的に示す努力が必要です。

結論

人的資本は、現代企業にとって最も重要な資産であり、同時に経営に大きな影響を与えるリスクの源泉でもあります。人的資本リスクを個別最適ではなく、全社的リスク管理(ERM)のフレームワークに統合し、戦略的に管理することは、不確実性の高い時代において組織の持続的な成長と企業価値向上を実現するための不可欠な要素です。

ERMを通じて人的資本リスクを特定、評価、対応、モニタリングするプロセスを確立し、経営層の関与、部門間の連携、データ活用、そして組織文化の醸成を進めることが重要です。人的資本リスク管理を単なるコンプライアンスやコスト管理ではなく、人材への投資と組織能力の強化を通じた「価値創造」のアプローチとして捉え直すことで、リスクを低減するだけでなく、組織の潜在能力を最大限に引き出し、競争優位を確立することができるでしょう。経営企画部門の皆様には、人的資本リスク管理の高度化をERM推進の中核的な課題の一つとして位置づけ、全社的な取り組みを牽引していくことが期待されます。