リスクを価値に変えるERMを推進する組織と人材の戦略的設計
全社的リスク管理(ERM)における組織・人材戦略の重要性
現代の企業経営において、不確実性の高まりは避けて通れない課題です。地政学的リスク、技術革新のスピード、環境・社会問題への関心の高まりなど、企業を取り巻くリスクは質・量ともに変化し続けています。こうした状況下で、全社的リスク管理(ERM)は、単にリスクを回避するだけでなく、それらを経営戦略と統合し、企業価値を持続的に向上させるための重要な経営ツールとして認識されています。
しかし、ERMを実効性のあるものとするためには、単にリスク管理のプロセスやシステムを導入するだけでは不十分です。最も重要な要素の一つが、ERMを推進し、組織全体にリスク管理の文化を根付かせるための戦略的な組織体制の構築と人材育成です。どのような体制で、どのような能力を持つ人材がERMに関与するのかが、その成否を大きく左右すると言えるでしょう。
この組織・人材に関する戦略的な設計は、ERMが形式的な活動に終わらず、経営の意思決定に資する生きた情報を提供し、最終的にリスクを機会に変える力となるために不可欠です。
ERM推進に必要な組織体制の設計
ERMを効果的に推進するための組織体制には、いくつかのパターンが考えられますが、重要なのは企業の規模、事業内容、リスク特性、既存の組織文化などを考慮した上で、自社に最適な設計を行うことです。
一般的に、ERM推進体制には以下の要素が不可欠です。
- 経営層の関与とリーダーシップ: ERMが経営戦略と連動し、全社的な取り組みとなるためには、経営層がリスク管理の重要性を理解し、率先してその推進をリードすることが不可欠です。リスクアペタイトの設定や重要なリスクに関する最終判断は経営層が行う必要があります。
- ERMを統括する部署・機能: リスク管理に関する方針策定、フレームワークの維持・改善、全社的なリスク情報の収集・分析・集約、各部門への支援・教育などを担う部署や機能が必要です。経営企画部門や専門のリスク管理部門がその役割を担うことが多いです。
- 各部門・事業単位でのリスク管理体制: 実際の事業活動におけるリスクの特定、評価、対応、モニタリングは、各部門や事業単位で行われます。部門責任者は、自部門のリスク管理に責任を持ち、統括部署と連携してERMを推進します。
- 横断的な委員会や会議体: 重要なリスクについて議論し、部門間の連携を強化するための全社横断的な委員会や会議体(例:リスク管理委員会、コンプライアンス委員会など)も有効です。
これらの要素をどのように組み合わせ、権限と責任を明確に定義するかが、組織体制設計の鍵となります。また、グローバル展開している企業においては、本社と海外拠点との連携、地域ごとのリスク特性を踏まえた体制構築も重要な論点となります。
ERMを担う人材の要件と育成アプローチ
ERMの実効性を高めるためには、体制構築と並行して、ERMを担う人材の質を高めることが不可欠です。ERMに関わる人材には、以下のような能力や資質が求められます。
- リスク管理に関する専門知識: リスクの種類、評価手法、対応策、モニタリング手法など、リスク管理に関する体系的な知識が必要です。ISO 31000やCOSO ERMなどの主要フレームワークへの理解も含まれます。
- 自社の事業・業界への深い理解: リスクは事業活動の中に内在します。事業プロセス、戦略、業界特有のリスク要因などを理解していることが、効果的なリスク特定・評価には不可欠です。
- 分析力と問題解決能力: 収集されたリスク情報を分析し、潜在的な影響や相互関係を理解する能力、そしてリスクへの対応策を検討・立案する能力が求められます。
- コミュニケーション能力とファシリテーション能力: 各部門の担当者や経営層と円滑にコミュニケーションを取り、リスクに関する議論を促進し、共通認識を形成する能力は極めて重要です。特に、部門間のリスク認識を統一し、全社的なリスク文化を醸成するためには、高度なコミュニケーションスキルが求められます。
- 倫理観と誠実さ: リスク情報は機密性が高く、また時には不都合な真実を含むこともあります。高い倫理観と誠実さをもって業務を遂行することが不可欠です。
これらの人材を育成するためには、体系的な研修プログラムの実施、実践的な経験を積む機会の提供、外部専門家との連携などが考えられます。また、必ずしもリスク管理の専門家だけがERMを担うのではなく、各部門の担当者がリスク意識を高め、自律的にリスク管理に取り組めるよう、全社的なリスク教育を行うことも重要です。
全社的なリスク文化の醸成と組織・人材の役割
ERMを組織に根付かせ、リスクを価値に変えるためには、全社的なリスク文化の醸成が不可欠です。リスク文化とは、組織全体でリスク管理の重要性を認識し、リスクについてオープンに議論し、リスク情報を共有し、リスクを考慮した上で意思決定を行う組織の気風や価値観のことです。
組織体制と人材は、このリスク文化醸成において中心的な役割を担います。
- 経営層: リスクに対する前向きな姿勢を示し、リスク管理を経営の優先事項として位置づけることで、組織全体の意識を変革します。
- ERM統括部署・機能: リスク管理に関する共通言語やフレームワークを提供し、組織全体が同じ土俵でリスクについて議論できる環境を整備します。また、成功事例やリスク管理の重要性に関する情報を発信し、意識向上を図ります。
- 各部門・事業単位: 日々の業務の中でリスクについて考え、議論し、報告する習慣を実践します。これにより、リスク管理が特別な活動ではなく、通常の業務の一部として定着します。
- 個々の従業員: 自らの業務に関連するリスクを意識し、識別されたリスクに対して適切に対応することで、組織全体のリスク対応力を高めます。
人材育成のアプローチは、単なる知識付与に留まらず、従業員一人ひとりがリスク文化の担い手となるよう、意識改革や行動変容を促す内容を含める必要があります。
フレームワークにおける組織・人材の視点
主要なERMフレームワークであるISO 31000やCOSO ERMにおいても、組織と人材の重要性は強調されています。
- ISO 31000: リスク管理の原則の一つとして「リーダーシップとコミットメント」を挙げており、経営層の役割の重要性を示しています。また、「人的因子と文化的因子」を考慮することの必要性も明記しており、組織文化や個人の行動がリスク管理に与える影響を認識することの重要性を説いています。
- COSO ERM(Enterprise Risk Management—Integrating with Strategy and Performance): ERMの構成要素の一つとして「Governance and Culture」を挙げています。これには、取締役会によるリスク監督、経営層によるリスク管理の推進、組織構造、倫理観や価値観といった要素が含まれており、組織のガバナンスと文化がERMの基盤となることを示しています。また、「Capabilities, including Innovation」の要素では、組織がリスクを管理し、戦略を実行するために必要な能力、知識、スキルを持つ人材を育成・維持することの重要性が述べられています。
これらのフレームワークは、ERMを推進する上で、組織構造や役割分担、そして人材の能力や文化といった非技術的な側面が極めて重要であることを示唆しています。
まとめ:戦略的な組織・人材設計が企業価値向上に貢献する
全社的リスク管理(ERM)を、単なるリスク回避のためのコストではなく、企業価値を向上させるための戦略的な投資と位置づけるためには、組織と人材への戦略的なアプローチが不可欠です。
実効性のある組織体制を構築し、必要な能力と意識を持った人材を育成・配置することで、リスク情報の質と量が向上し、経営層はより精緻なリスク情報を基にした意思決定を行うことが可能となります。これにより、潜在的な損失を回避できるだけでなく、リスクテイクの機会を適切に捉え、新たな事業機会の創出や競争優位性の確立に繋げることができます。
リスクを価値に変えるERMを実現するためには、組織と人材の設計を経営戦略の一部として捉え、継続的な改善と投資を行っていくことが求められます。これにより、企業は不確実な時代においてもレジリエンスを高め、持続的な成長を実現することができるでしょう。