経営層を納得させるERM効果測定:投資対効果(ROI)の算定と企業価値向上への紐づけ
はじめに:ERMへの投資、その価値をどう示すか
全社的リスク管理(ERM)は、企業の持続的な成長と企業価値向上に不可欠な経営活動として認識されています。しかし、ERM推進部門の責任者の皆様にとっては、ERM活動への投資(人員、システム、コンサルティング費用など)が、具体的にどのような効果を生み出し、経営目標達成や企業価値向上にどのように貢献しているのかを、経営層に対して明確に説明し、納得を得ることは重要な課題の一つかと存じます。
特に、限られた経営資源の中でERMへの継続的な投資を正当化するためには、単にリスクを回避した、事故が起きなかったといった定性的な説明に留まらず、投資対効果(ROI)のような財務的な視点を含めた定量的な評価と説明が求められる場面も多いのではないでしょうか。
本稿では、ERMへの投資がもたらす効果を測定し、それを経営層が納得する形で報告するための実践的なアプローチ、特に投資対効果(ROI)の考え方と、それが企業価値向上へどのように紐づくのかについて解説いたします。
なぜERMの投資対効果(ROI)を示す必要があるのか
ERMはしばしば「コストセンター」と見なされがちですが、その実態は企業のレジリエンスを高め、不確実性の中での成長機会を捉えるための「戦略的な投資」であるべきです。この投資としての性格を経営層に理解してもらうためには、以下の点が重要となります。
- アカウンタビリティの遂行: 投資された資源が有効活用されていることを証明し、経営層への説明責任を果たします。
- 継続的な投資の確保: 効果が明確であれば、ERM活動に必要な予算や人員を継続的に確保しやすくなります。
- ERM活動の戦略的位置づけ: ERMが単なるリスク管理部門の活動ではなく、全社的な経営戦略の一環であることを明確にします。
- 優先順位付けの支援: 測定結果を基に、より効果の高いERM施策に資源を集中させることができます。
ERMの投資対効果(ROI)測定における固有の課題
ERMのROI測定は、他のビジネス投資と比較していくつかの難しさがあります。主な課題は以下の通りです。
- 「起こらなかったこと」の価値評価: ERMの主要な効果の一つは、リスクイベントの発生を未然に防ぐことですが、「何も起きなかった」ことの価値を具体的に測定することは困難です。
- 因果関係の特定: 企業業績や企業価値の変動には様々な要因が複合的に影響しており、その中のERMの効果だけを切り分けて特定することは容易ではありません。
- 非財務的効果の財務価値換算: ERMはレピュテーション向上、従業員エンゲージメント向上、意思決定の迅速化など、多くの非財務的な効果をもたらしますが、これらを直接的に財務価値に換算するのは難しい場合があります。
- 長期的な効果の発現: ERMの効果は短期的に現れるものもありますが、多くは組織文化の醸成やレジリエンス強化といった形で、長期にわたって徐々に発現します。
これらの課題を踏まえつつも、工夫次第でERMの効果を定量的に捉え、ROIに近い形で示すことは可能です。
ERM投資対効果(ROI)測定の基本的なアプローチ
ERMのROIは、一般的なROIの計算式である「(利益 - 投資額)÷ 投資額」をそのまま適用することが難しい場合があります。しかし、ERMの文脈に合わせて、「リターン」を「ERM活動によって回避された損失や獲得された価値」と捉え、測定可能な要素を積み上げていくアプローチが有効です。
1. コストの特定と集計
まず、ERMに関連する年間または特定の期間におけるコストを正確に把握します。
- 直接コスト: ERM部門の人件費、ERMシステム費用、コンサルティング費用、研修費用など。
- 間接コスト: 各部門のリスク対応に要する時間(人件費換算)、リスク評価・報告プロセスの負担など。
これらのコストを可能な限り定量的に集計します。
2. 効果(リターン)の測定と定量化
ERMがもたらす効果を、以下の複数の側面から測定し、可能な限り定量化します。
- 回避された損失(定量化が比較的容易なもの):
- リスクイベントの発生頻度・被害額の低減: 過去のデータに基づき、ERM導入・強化後に発生したリスクイベントの件数や損害額の減少率を測定します。特定の対策(例:サイバーセキュリティ強化)によるインシデント発生率の低下と想定される損害額の削減効果を試算します。
- 保険料の削減: ERM活動によるリスクプロファイルの改善が評価され、損害保険料などが削減された場合、その削減額を効果として計上します。
- コンプライアンス違反による罰金・訴訟費用の回避: 内部統制やコンプライアンスプログラムと連携したERM活動により、法規制違反やそれに伴う罰金、訴訟費用を回避できたと合理的に推測される場合、その回避額を算定します。
- コスト削減・効率化:
- オペレーション効率化: リスク評価プロセスを通じて非効率な業務フローが特定・改善された場合のコスト削減効果。
- リスク管理プロセスの効率化: ツール導入や体制整備による担当者の工数削減。
- 企業価値向上への貢献(財務的な影響):
- 資金調達コストの低減: ERM体制が整備されていることが信用格付けや金融機関の評価に影響し、借入金利の低下や資金調達の容易化につながった場合、その財務的メリットを評価します。
- 収益の安定化: サプライチェーンリスク管理などにより、事業継続性が高まり、不確実な環境下でも安定した収益を維持できた効果。これは、リスクが顕在化した場合の想定される収益低下額を回避できたと見なすこともできます。
- 新規事業・戦略のリスクテイク能力向上: ERMによってリスクが適切に評価・管理できるようになることで、成長につながる新規事業や投資判断を自信を持って行えるようになります。これにより獲得できた収益機会を、リスクを管理していなかった場合と比較して評価します(シナリオ分析などを活用)。
- レピュテーション向上: 危機管理対応の適切さやESGリスクへの対応が評価され、ブランド価値や顧客ロイヤリティが向上した場合、長期的な売上増加や価格決定力強化に繋がる可能性があります。これを財務指標(売上高、利益率など)への影響として間接的に評価します。
具体的な測定手法と経営層への報告
1. 定量的なKPI/KGIの設定
ERM活動の目標と効果を、具体的な定量指標(KPI: Key Performance Indicator)や最終目標指標(KGI: Key Goal Indicator)として設定します。
- ERMプロセスの効率性: リスク評価の完了率、リスク対応計画の実施率など。
- リスクプロファイルの変化: 重大リスクの数と深刻度の推移、特定の重要リスクの発生頻度や損害額の低減率など。
- 財務的な成果指標: 保険料削減額、コンプライアンス関連費用(罰金等)の発生額、信用格付けの変動、運転資本回転率(サプライチェーン効率化との関連)など、ERMとの関連性が高い財務指標。
- 企業価値関連指標: 株価、時価総額、有利子負債比率、ROE(自己資本利益率)など、より上位の指標との相関関係を分析。
これらの指標について、ERM導入前や強化前のベースラインを設定し、経年での変化を追跡することが重要です。
2. シナリオ分析とケーススタディ
特定の重大リスクが顕在化した場合の潜在的な損失額を、ERMの対策実施前と実施後で比較するシナリオ分析は、リスク回避による効果を示す有効な方法です。例えば、大規模災害発生時の事業中断による損失を、BCP策定・訓練(ERMの一部)による復旧時間の短縮効果を考慮して算定し、回避できた損失額を推計します。
また、ERMが貢献した具体的なケーススタディ(例:あるリスクを早期に発見・対応したことで大規模な損失を防いだ事例)は、定量的なデータだけでなく、経営層にERMの価値を直感的に理解してもらう上で非常に有効です。
3. 経営層への効果的な報告
測定した効果を経営層に報告する際は、以下の点を意識します。
- 戦略との連動性を強調: ERM活動が、経営戦略の実行をどのように支え、企業価値向上にどのように貢献しているのかを明確に示します。リスクを回避しただけでなく、どのように機会を捉える力を高めたのか、レジリエンスがどのように競争優位性につながるのかといった視点を含めます。
- ストーリーテリング: 単に数字を羅列するだけでなく、ERMによって何が変わり、どのようなリスクが回避され、どのような価値が生まれたのかを分かりやすいストーリーで伝えます。
- 財務指標と非財務指標のバランス: ROIのような財務的な指標は重要ですが、レピュテーションや組織文化、意思決定の質の向上といった非財務的な効果も、それが将来的に企業価値にどう繋がるかという視点で説明します。
- ビジュアル化の活用: ダッシュボードやグラフを用いて、リスクの変化、KPIの達成度、コストと効果の比較などを視覚的に分かりやすく提示します。
- 継続的な報告: ERMの効果は一過性のものではないため、定期的に報告を行い、ERMへの理解と信頼を醸成します。
成功に向けたポイント
ERMの投資対効果測定と経営層への説明を成功させるためには、以下の点が鍵となります。
- 測定目的の明確化: 何のために測定を行うのか(予算獲得、戦略的位置づけ、改善点特定など)を明確にし、それに合った指標とアプローチを選択します。
- 関係部門との連携: 財務部門、事業部門、内部監査部門など、関係する部門と密接に連携し、必要なデータ収集や効果の評価に関する協力を得ます。特に財務部門との連携は、財務的な効果を定量化する上で不可欠です。
- 完璧を目指さない: ERMのすべての効果を完璧に定量化することは困難です。まずは測定可能な範囲から着手し、徐々に測定範囲や精度を高めていく現実的なアプローチが重要です。
- 長期的な視点を持つ: ERMの効果、特に企業価値向上への貢献は長期的な視点で評価する必要があります。短期的な効果だけでなく、中長期的な視点からの説明を心がけます。
結論:ERM効果測定は企業価値向上への羅針盤
ERMへの投資がもたらす効果を測定し、特に投資対効果(ROI)の視点から経営層に説明することは、ERMを単なるコストではなく、企業価値創造の戦略的パートナーとして位置づけるために不可欠です。回避された損失の定量化、コスト削減効果、そしてレジリエンス向上や新規事業機会創出といった企業価値向上への貢献を多角的に評価し、経営層が納得する形で分かりやすく報告することで、ERMは組織全体で推進される「活きた経営ツール」となり得ます。
この取り組みは容易ではありませんが、継続的な挑戦と改善を通じて、ERMは不確実な時代における企業の競争優位性を高め、持続的な企業価値向上を確実なものへと導く羅針盤となるでしょう。