経営戦略の策定段階にリスク情報を統合するERM:不確実性を機会に変える戦略的アプローチ
はじめに:不確実な時代の経営戦略とERMの新たな役割
現代の企業経営は、テクノロジーの進化、地政学的な変動、気候変動、社会構造の変化など、予測困難な様々な不確実性に直面しています。こうした環境下で持続的な成長を実現するためには、従来の「リスクを回避する」という考え方から一歩進み、不確実性の中に潜む「機会」を捉え、戦略的な意思決定を行うことが不可欠です。
全社的リスク管理(ERM)は、もはやコンプライアンス遵守や単なる損害防止のための機能ではありません。企業の目的達成を阻害するリスク要因だけでなく、成長機会を特定・評価し、経営戦略の策定そのものに深く関与する「価値創造」のための重要なツールへと進化しています。特に、経営戦略の初期段階である「策定プロセス」にERMを効果的に組み込むことで、より質の高い戦略を立案し、不確実性を乗り越えて企業価値を向上させることが可能となります。
本稿では、経営戦略の策定段階にリスク情報を統合することの重要性と、その具体的なアプローチについて解説いたします。
なぜ経営戦略策定段階にERMが必要なのか
経営戦略は、企業の将来の方向性を決定する最も重要な意思決定プロセスです。しかし、策定時点では多くの前提条件や外部環境の予測が含まれており、それらが不確実であるほど、戦略の実行可能性や成果はリスクに晒されます。
経営戦略策定段階でERMを統合することの主な利点は以下の通りです。
- リスクと機会の早期特定と評価: 将来の環境変化や潜在的なリスク・機会を戦略策定の初期段階で考慮することで、より現実的でレジリエンスの高い戦略オプションを検討できます。
- 戦略オプションの質の向上: リスク情報を踏まえた分析を行うことで、単に収益性だけでなく、リスク調整後のリターンを考慮した、よりバランスの取れた戦略を選択できます。
- リスクアペタイトとの整合性確保: 企業の許容できるリスク水準(リスクアペタイト)を戦略策定時に明確に定義し、戦略がその範囲内に収まっているかを確認することで、無謀なリスクテイクを防ぎつつ、必要なリスクは積極的に取れる体制を構築します。
- 戦略実行段階へのスムーズな移行: 策定段階で特定された主要なリスクや機会に関する情報が、戦略実行の各段階でのリスク管理活動へと適切に引き継がれます。
- 組織全体のリスク認識の統一: 策定プロセスに様々な部門を巻き込むことで、全社的なリスク認識の統一を促進し、リスク文化の醸成に繋がります。
経営戦略とリスクは表裏一体の関係にあります。リスク情報を戦略策定に統合しないということは、不確実性という重要な要素を無視して航海の計画を立てるようなものです。
経営戦略策定プロセスへのERM組み込みの具体的なステップ
経営戦略の策定プロセスにERMを効果的に組み込むためには、以下のステップが考えられます。
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戦略アジェンダとリスク・機会の関連付け:
- まず、経営層が設定する長期ビジョンや中期経営計画の基本的な戦略アジェンダ(例:新規事業参入、海外市場拡大、デジタルトランスフォーメーション推進など)を明確にします。
- 次に、各戦略アジェンダの実現可能性に影響を与えうる内外の環境要因から、潜在的なリスク(例:競合激化、技術陳旧化、規制強化、自然災害)と機会(例:新たな市場ニーズ、技術革新、提携の可能性)を包括的に特定します。この際、財務的側面だけでなく、オペレーショナル、コンプライアンス、戦略、ハザードといった多様なリスクカテゴリを考慮します。
- 特定されたリスク・機会が、戦略アジェンダにとってどの程度重要かを評価します。
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戦略オプションのリスク・リターン分析:
- 複数の戦略オプションが検討される場合、各オプションについて、期待されるリターン(収益性、市場シェア拡大など)と、それに伴う主要なリスク(投資失敗、プロジェクト遅延、ブランド毀損など)を分析します。
- 定量的データ(市場規模予測、コスト試算など)と定性的な評価(規制動向、競合の動きなど)を組み合わせ、各オプションのリスクプロファイルを明確にします。シナリオプランニングや感度分析といった手法も有効です。
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リスクアペタイトの設定と戦略選択への反映:
- 企業全体として、また個別の戦略アジェンダに関連して、どの程度のリスクを許容できるか(リスクアペタイト)を経営層が明確に設定します。
- 分析した各戦略オプションのリスクプロファイルが、設定されたリスクアペタイト内に収まっているかを確認します。リスクアペタイトを超えるリスクを伴うオプションは、リスク低減策を講じるか、あるいは選択肢から外すことを検討します。逆に、リスクアペタイトの範囲内でより大きな機会を追求できるオプションを優先的に検討します。
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戦略実行段階へのリスク情報の引き継ぎ:
- 策定された最終的な戦略に関連する主要なリスク、設定されたリスクアペタイト、および初期段階で検討された対応方針などを、戦略実行を担う各部門や担当者へ適切に引き継ぎます。
- 戦略実行におけるモニタリング指標に、リスク関連の指標(例:特定の市場リスクの変化、規制動向のモニタリング状況)を組み込むことを検討します。
リスク情報を戦略的洞察へ変えるためのアプローチ
単にリスクをリストアップするだけでなく、それを経営戦略にとって有益な洞察に変えるためには、以下のようなアプローチが有効です。
- シナリオプランニングとトレンド分析の活用: 未来の不確実性を複数のシナリオとして描き、各シナリオにおける自社を取り巻くリスクと機会を検討します。人口動態、技術トレンド、マクロ経済指標などの長期的なトレンド分析も組み合わせることで、将来起こりうる変化に対する洞察を深めます。
- 非財務・定性リスク情報の収集・分析: 従来の財務リスクだけでなく、評判リスク、サイバーセキュリティリスク、サプライチェーンリスク、人的資本リスク、環境リスクなど、非財務的・定性的なリスク情報も積極的に収集・分析します。SNS上の評判、従業員のエンゲージメントデータ、気候変動に関する科学的知見など、多様な情報源を活用します。
- 部門横断的なリスクワークショップ: 経営企画部門が主導し、関連する事業部門、財務、法務、人事、IT、ERM担当者などが集まるワークショップを実施します。多様な視点からリスクや機会を議論することで、網羅的かつ多角的な洞察を得ることができます。
- 外部専門家の活用: 必要に応じて、特定の分野(地政学、サイバーセキュリティ、気候変動など)の外部専門家やコンサルタントの知見を活用し、リスク評価の精度を高めます。
ERMの戦略策定への貢献を最大化するためのポイント
ERMが経営戦略策定において真価を発揮するためには、以下の点に留意することが重要です。
- 経営層の強いコミットメント: 経営層がERMを単なる管理機能ではなく、戦略的意思決定に不可欠な要素として認識し、プロセスへの積極的な関与を示すことが最も重要です。
- 経営企画部門とERM部門(または担当者)の緊密な連携: 経営戦略のプロフェッショナルである経営企画部門と、リスク管理の専門家であるERM担当者が、戦略策定プロセスの初期段階から連携し、密に情報共有を行うことが不可欠です。
- 必要なデータ基盤と分析能力: 多様なリスク情報を収集・分析するためのデータ基盤の整備や、データ分析を担える人材育成・確保が必要です。
- 柔軟性と実用性: 策定プロセスに組み込むERMの手法は、複雑すぎず、戦略策定のスピード感を損なわない柔軟かつ実用的なものであるべきです。
- 組織全体のリスク文化醸成: 経営層から現場まで、すべての従業員がリスクや機会についてオープンに語り合い、共有できる文化が、戦略策定におけるリスク情報の質を高めます。
おわりに:経営戦略策定段階でのERM定着がもたらす企業価値向上
経営戦略の策定段階からERMを統合することは、単に将来のリスクを回避することに留まりません。不確実性の高い現代において、将来起こりうる様々なシナリオや潜在的なリスク・機会を早期に洞察し、リスクアペタイトを踏まえた最適な戦略オプションを選択することは、企業のレジリエンスを高め、同時に新たな成長機会を捉えることに繋がります。
経営企画部門が中心となり、ERMの専門性と連携しながらこのアプローチを推進することで、貴社の経営戦略はより強固で、かつ変化に柔軟に対応できるものとなるでしょう。これは、結果として企業価値の継続的な向上に大きく貢献するものと確信しております。
リスクを単なる脅威としてではなく、戦略的洞察を得るための重要な情報源として捉え直し、経営戦略の策定プロセスに深く組み込むことこそが、「リスクを価値に変えるERM」実践の重要な一歩となるのです。