経営信頼性を高めるERM:統合報告書における戦略的リスク開示
はじめに:不確実性の高まりと情報開示の重要性
現代の企業経営は、地政学リスクの変動、技術革新の加速、環境・社会問題への意識向上など、予測困難な不確実性に満ちています。このような状況下で企業が持続的に成長し、企業価値を向上させていくためには、経営戦略と一体となった全社的なリスク管理(ERM)が不可欠です。
同時に、投資家をはじめとする多様なステークホルダーは、企業の財務情報だけでなく、非財務情報、特にリスクに関する情報開示に対して、ますます高いレベルの透明性と戦略性を求めています。統合報告書は、企業の価値創造プロセスを包括的に説明するための重要なツールとしてその役割を増しており、ここでは企業の抱えるリスクとその対応についても、単なるリストアップに留まらない、経営戦略との関連性が明確な情報開示が期待されています。
しかしながら、多くの場合、統合報告書におけるリスク開示は形式的なものに留まり、企業の真のリスク対応力や、それが企業価値にどう繋がるのかが十分に伝わらないという課題も見られます。本稿では、ERMの高度化が、統合報告書におけるリスク情報開示の質を戦略的に高め、結果として経営信頼性の向上と企業価値の持続的な創造にどのように貢献するのかを解説いたします。
ERMが統合報告書のリスク開示にもたらす価値
実効性のあるERMは、統合報告書におけるリスク開示の質を飛躍的に向上させる基盤となります。その主な価値は以下の点にあります。
1. 経営戦略と連動した重要リスクの特定
ERMは、単に事業運営上の潜在的な問題点を洗い出すだけでなく、経営戦略の実現を阻害する可能性のあるリスクを、全社的な視点から体系的に特定し評価することを可能にします。これにより、統合報告書で開示すべき「企業の価値創造に影響を与えうる重要なリスク」が明確になり、単なる網羅的なリストではなく、戦略的な重要性に基づいた情報提供が行えます。
2. リスクと機会の一体的な把握と説明
多くのリスクには、適切な対応や戦略的なリスクテイクによって、新たな事業機会や競争優位性の源泉となりうる側面があります。高度なERMは、リスクを機会と一体的に捉え、その両面を分析・評価します。統合報告書において、特定のリスクが経営戦略上どのような機会と関連しているのか、またその機会を追求する上でのリスク対応戦略はどうなっているのかを説明することで、企業の積極的な姿勢や不確実性への対応能力を効果的に伝えることができます。
3. 信頼性のある情報収集・分析プロセス
ERMが全社的なプロセスとして機能している場合、リスクに関する情報は組織全体から継続的かつ統一的な基準で収集・分析されます。この信頼性のある情報基盤があるからこそ、統合報告書で開示されるリスク情報も、単なる定性的な記述に留まらず、可能な範囲で定量的なデータや、そのリスクが顕在化した場合の影響度、対応策の進捗状況といった、より具体的で信頼性の高い情報として提示することが可能になります。
4. 実効性のあるリスクガバナンスの説明
統合報告書では、リスク管理体制やガバナンスについても説明が求められます。ERMが組織全体に浸透し、取締役会や経営層がリスク管理に対して積極的な関与を示す体制が構築されていれば、その実効性を具体的に説明できます。例えば、リスクアペタイト(企業が戦略目標達成のために受容可能なリスクの度合い)の設定プロセスや、重要なリスクに対する経営層の検討状況などを開示することで、企業のガバナンスに対するステークホルダーからの評価を高めることができます。
高度なリスク情報開示に向けたERMの実践ポイント
統合報告書での戦略的なリスク開示を実現するためには、ERMを以下の視点から実践・高度化していくことが重要です。
- 経営戦略・事業ポートフォリオとの緊密な連携: どのリスクが企業の価値創造ストーリーと最も関連が深いのか、事業ポートフォリオ全体の視点からリスクをどのように管理しているのかをERMプロセスの中で明確にします。
- リスクアペタイト・リスクキャパシティの明確化: 企業がどの程度のリスクであれば受容できるのか(リスクアペタイト)、また財務的な観点から最大どの程度のリスクに耐えられるのか(リスクキャパシティ)を定義し、これをリスク管理の基準とします。統合報告書でこれらの概念に触れることで、企業の戦略的なリスクテイクに対する考え方を示すことができます。
- 定性情報と定量情報のバランスの取れた収集・分析: 主要リスクについて、発生可能性や影響度といった定量的な側面に加え、リスクの性質、発生メカニズム、他のリスクとの関連性といった定性的な側面も深く掘り下げて分析します。
- 将来予測に基づいたシナリオ分析の活用: 不確実性の高いリスクに対しては、複数のシナリオを想定した分析(シナリオプランニング)をERMに組み込みます。これにより、想定される未来像とそれに伴うリスク・機会を統合報告書で開示し、企業の長期的な視点を示すことができます。
- リスク対応の進捗状況と有効性の評価: 特定されたリスクに対する対応策が計画通りに進んでいるか、またその対応策がリスクを適切に低減できているかを継続的に評価します。この評価プロセス自体や、主要な対応策の進捗を開示することで、リスク管理の実効性をアピールできます。
- ステークホルダーの関心を踏まえた情報選定: 投資家、顧客、従業員など、統合報告書の主な読者がどのようなリスクに関心を持っているかを理解し、彼らにとって意味のある情報を優先的に開示することを検討します。
- 継続的なプロセスとしての開示準備: 統合報告書の作成時期だけに対応するのではなく、ERMの継続的な運用プロセスの中で、開示に必要な情報を常に収集・整理しておく体制を構築します。
これらの実践は、ISO 31000やCOSO ERMといった主要なリスク管理フレームワークの原則や要素とも整合しています。これらのフレームワークに準拠したERM体制は、それ自体が信頼性の高いリスク管理が行われている証となり、開示内容の信頼性をさらに高めることにつながります。
高度なリスク情報開示がもたらす企業価値向上への貢献
ERMに基づく高度なリスク情報開示は、単に情報提供の義務を果たすだけでなく、企業価値向上に直接的・間接的に貢献します。
- 投資家からの評価向上: 企業の抱える重要なリスクを正直かつ戦略的に開示し、それに対する実効性のある対応策を示せる企業は、投資家からの信頼を得やすくなります。リスクを理解し、管理できているというシグナルは、不確実性が高い環境下での投資判断において、企業の魅力を高めます。これにより、資金調達コストの低減に繋がる可能性もあります。
- ステークホルダーとの良好な関係構築: 従業員、顧客、サプライヤー、地域社会など、様々なステークホルダーに対して透明性の高いリスク情報を提供することで、企業への理解と信頼が深まります。これは、ブランド価値の向上や事業継続性の強化にも貢献します。
- 社内のリスク意識向上と建設的な議論の促進: 統合報告書での開示を意識することは、社内におけるリスク情報の収集・分析・議論を活性化させます。どのようなリスクが社外から重要視されるのかを認識することで、各部門のリスク管理に対する意識が高まり、より建設的なリスクコミュニケーションや意思決定が促進されます。
まとめ:ERMを梃子に、リスク開示を経営戦略の推進力へ
現代において、企業が統合報告書を通じてリスクに関する情報を開示することは避けられません。しかし、これを単なる形式的な作業に留めるか、それともERMの高度化を通じて戦略的な情報開示へと昇華させ、経営信頼性の向上と企業価値の創造に繋げるかは、企業のERMに対する考え方にかかっています。
全社的なリスク管理(ERM)を経営戦略と一体的に推進し、そこで得られた信頼性のあるリスク情報を戦略的に統合報告書で開示すること。これは、不確実な時代において、企業がステークホルダーからの信頼を獲得し、持続的な成長を実現するための重要な鍵となります。
経営企画部門を統括される皆様には、ERMを単なるリスク回避のツールとしてだけでなく、統合報告書における戦略的なリスク情報開示を通じた、経営信頼性向上と企業価値創造のための強力な梃子として位置づけ、その推進に取り組んでいただくことを期待いたします。