戦略実行段階におけるERMの実践:不確実性を乗り越え目標達成を確実にする
はじめに
現代の企業経営において、経営戦略の策定は不可欠です。しかし、策定された戦略が絵に描いた餅に終わらず、実際に組織全体で実行され、目標達成に結びつくことは容易ではありません。不確実性の高いビジネス環境下では、予期せぬリスクが戦略の実行を阻害する可能性があります。
全社的リスク管理(ERM)は、多くの場合、リスクを回避または低減するための守りの側面が強調されがちです。しかし、真に企業価値を向上させるERMは、経営戦略と密接に連携し、戦略の実行段階において発生しうるリスクを能動的に管理し、目標達成の確率を高める「攻め」のツールとしても機能します。本稿では、経営戦略の実行段階にERMを効果的に組み込み、不確実性を乗り越えて戦略目標達成を確実にするための実践的なアプローチについて解説します。
戦略実行におけるERMの役割
経営戦略の実行段階におけるERMの主な役割は以下の通りです。
- 戦略目標達成に向けたリスクの特定と評価: 策定された戦略が具体的にどのような活動(戦略的イニシアティブ、プロジェクトなど)を通じて実行されるのかを明確にし、それぞれの活動や全体のプロセスにおいて、目標達成を阻害しうるリスクを包括的に特定・評価します。リスクは財務的なものだけでなく、オペレーショナル、コンプライアンス、戦略的、レピュテーションリスクなど、多岐にわたります。
- 戦略的イニシアティブごとのリスク管理計画の策定: 特定されたリスクに対して、担当部署や責任者(リスクオーナー)を明確にし、リスクの発生を予防または影響を最小限に抑えるための具体的な対応策(リスク軽減策)や、発生した場合の対応計画を策定します。これは、戦略実行計画の一部として統合されるべきです。
- 進捗モニタリングとリスクの早期検知: 戦略の実行状況と並行して、リスクの状況を継続的にモニタリングします。リスク指標(Key Risk Indicators: KRIs)を設定し、リスクの兆候を早期に捉えることで、問題が大きくなる前に対策を講じることが可能になります。
- 変化への適応とリスク対応の迅速化: 経営環境は常に変化しており、戦略実行中にも新たなリスクが出現したり、既存のリスクの性質が変化したりします。ERMのプロセスを通じて、これらの変化を迅速に捉え、戦略やリスク管理計画を機動的に見直す体制を構築します。
戦略実行ERMの実践手法
戦略実行段階でERMを実効性あるものとするためには、いくつかの実践的な手法を取り入れることが有効です。
戦略KPIとリスク指標(KRI)の連動
戦略目標の達成度を示す重要業績評価指標(KPI)と、その達成を阻害する可能性のあるリスクの兆候を示すKRIを連動させることが重要です。例えば、「新規顧客獲得数」というKPIに対するリスクとして「競合他社の予期せぬ価格攻勢」がある場合、競合他社の価格動向や市場シェアの変化などをKRIとして設定し、継続的にモニタリングします。これにより、戦略目標の達成が危ぶまれるリスクの兆候を早期に発見できます。
戦略実行レビューへのリスク情報の組み込み
定期的に実施される戦略実行レビュー会議などの場で、単に進捗状況だけでなく、リスクの観点からの報告と議論を必須とします。各戦略的イニシアティブに関連する主要なリスクの現状、講じている対策の効果、新たなリスクや変化の兆候などを経営層や関連部門の責任者が共有し、必要に応じて対策の強化や戦略の見直しを検討します。
ポートフォリオレベルでのリスク集約と優先順位付け
個別の戦略的イニシアティブやプロジェクトだけでなく、全社的な視点でリスクを集約し、戦略目標全体に対する影響度に基づいてリスクの優先順位をつけます。限られたリソースの中で、どのリスクに重点的に対応すべきかを判断し、最適なリソース配分を行います。これにより、最も重要な戦略目標がリスクによって頓挫する可能性を低減できます。
部門横断的なリスク協調体制の構築
戦略実行には複数の部門が関わることが一般的です。ERMを効果的に機能させるためには、部門間の壁を越えたリスク情報の共有と連携が不可欠です。戦略実行の責任者を中心に、関連する各部門のリスクオーナーや担当者が定期的に集まり、戦略に関連するリスクについて議論し、協調して対策を講じる体制を構築します。
シナリオプランニングの活用
不確実性の高い状況下での戦略実行においては、複数の将来シナリオを想定し、それぞれのシナリオで発生しうるリスクと機会を分析するシナリオプランニングが有効です。特定のシナリオ(例: 経済の急変、技術のブレークスルー)が発生した場合に、現在の戦略実行計画がどの程度有効か、どのような新たなリスクが生じるかなどを事前に検討しておくことで、変化への対応力を高めることができます。
成功事例からの示唆
(※特定の企業名は避けた抽象的な解説)
製造業におけるグローバルなサプライチェーン再構築の事例では、ERMが単なる物理的リスク管理に留まらず、地政学リスク、為替変動リスク、各国の規制変更リスクなどを包括的に特定・評価し、代替サプライヤー候補の事前確保、複数地域での生産拠点分散、為替ヘッジ戦略の見直しなどを並行して実行しました。これは、サプライチェーンのレジリエンス強化という戦略目標達成に向けた、ERMの能動的な活用事例と言えます。リスク情報を戦略実行の意思決定プロセスに組み込んだことで、予期せぬ外部環境の変化に対しても迅速かつ適切に対応でき、計画通りのサプライチェーン構築を実現しました。
また、サービス業における大規模なデジタルトランスフォーメーション(DX)推進の事例では、新規サービス立ち上げに伴う技術リスク、顧客データプライバシーリスク、従業員のデジタルスキル習得遅延リスクなどが重要なリスクとして特定されました。ERMプロセスを通じて、これらのリスクに対する具体的な対策(セキュリティシステムの強化、個人情報保護ポリシーの策定、全社的なデジタル研修プログラムの実施など)が、DX推進計画の一部として組み込まれました。定期的な進捗会議では、DX関連のKPIと並行して、リスク指標(例: システムの脆弱性検出数、個人情報漏洩インシデントの発生状況、研修受講率)が報告され、リスクレベルに応じて追加的な対策や計画の見直しが行われました。これにより、多くのDXプロジェクトが直面するリスクによる遅延や頓挫を防ぎ、計画通りのサービス提供を実現し、企業価値向上に貢献しました。
これらの事例は、ERMが戦略実行プロセスに不可欠な要素として組み込まれることで、リスクを管理しつつも、戦略目標の達成確度を高めることができることを示しています。
主要ERMフレームワークの活用と経営への財務的インパクト
COSO ERMフレームワークやISO 31000といった主要なERMフレームワークは、戦略策定から実行、モニタリング、レビューまでの一連のプロセスにおいて、リスク管理をどのように組み込むべきかについての指針を提供しています。これらのフレームワークを参照することで、自社の戦略実行ERM体制を体系的に構築・強化することが可能です。特にCOSO ERMは、リスク管理を戦略とパフォーマンスに統合することの重要性を強調しており、戦略実行ERMの考え方と親和性が高いと言えます。
戦略実行段階でERMを効果的に実践することは、企業に複数の財務的なメリットをもたらします。
- コスト削減: リスクの早期検知と対応により、問題発生後の対処にかかるコスト(復旧費用、訴訟費用など)を削減できます。
- 収益向上: 戦略目標の達成確度が高まることで、新規事業からの収益、市場シェア拡大による収益などが計画通りに実現しやすくなります。リスクによる機会損失(例: 開発遅延による市場投入機会の逸失)を防ぐことも収益向上に寄与します。
- 資本効率の改善: リスク情報に基づいたリソース配分や意思決定を行うことで、無駄な投資や損失を防ぎ、資本をより効率的に活用できます。プロジェクトの成功率向上は、投資対効果(ROI)の向上に繋がります。
- 企業価値の向上: 上記の財務的効果に加え、リスク管理体制が整っていることは、投資家やその他のステークホルダーからの信頼を高め、企業評価(株価など)の向上にも繋がります。不確実性への対応力の高さは、持続的な成長への期待を高めます。
結論
経営戦略を成功裏に実行し、不確実性を乗り越えて企業価値を継続的に向上させるためには、ERMを単なるリスク回避のツールとしてではなく、戦略実行を支援する能動的な経営ツールとして位置づけることが不可欠です。戦略KPIとリスク指標の連動、戦略実行レビューへのリスク情報の組み込み、部門横断的な協調体制の構築といった実践的なアプローチを通じて、ERMを戦略実行プロセスに深く統合することが求められます。
経営企画部門の責任者として、ERMが経営戦略の「絵姿」を実現するための重要な推進力となることを理解し、組織全体で戦略実行ERムを実践していくためのリーダーシップを発揮していくことが、企業の持続的な成長にとって極めて重要となります。リスクを単なる脅威と捉えるのではなく、戦略実行の過程における不確実性として捉え、これを適切に管理することで、リスクを価値創造の機会へと変えていくことが可能となるのです。